昨年の最終節は向う側のあの辺りの場所だった・・閑散とした雨の西京極でホーム側のゴール裏を遠く眺めながら思っていた。
カメラのメモリーにはまだあの試合の映像が残っている。メモリーを消去して無かったことに出来るなら、全てが終わったことを知り、なお歌い続けた時間、遠近感が失われた中で選手一人一人の憔悴した表情を見ていた時間も消えて無くなれば、と何度も願った。でも、あそこで終わったわけではなく、あそこから歩き出さなければならなかった。
あの時の暗さは忘れられない。アウェイ側に詰めかけた東京ファンを包む空気はそのまま夜の鴨川の暗さに連なり、川べりで歌い踊る京都の若い人たちの賑わいは何か別世界のような空虚さを心の中に堆積させていった。
あの水の流れに詰まらないプライドや体裁は流してしまったつもりだったが、悲しみや喪失感、悔しさはそのままついてきた。またやって来たんだね、忘れていたわけではないが、あの日はっきりとその表情を見た。悲しみや失意は私の人生の親戚のようなもの。
あの時とは打って変わったのんびりした雰囲気の西京極にまばらな観客。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
全ては変わっていくのだ。過去を振り返って何を恐れることがあろう。
この目でしっかりと見て、この手で大事なものを取り戻したのだ。
苦しみながらもがきながら前に進もうとする人に灯りを差し出す人でありたい。
この日灯りをともして見せたのは、私の年の半分以下という若い人だった。