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荒地の花-神とともに人とともに

昨日は日帰りで安曇野まで。
安曇野市豊科近代美術館で宮芳平展が行われることをNHKの番組で知った。そこで見た「椿」という作品が妙に心に残り、連休の中日に出かけることにした。
宮芳平のことは何も知らないままだったが、この機会を逃してはならないような気がした。
立川からあずさ3号に乗って、10時半過ぎには豊科に着いた。

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駅前はこんな感じ。
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美術館までは徒歩10分ほど。途中にはこのような歴史を感じさせる建物が見られる。
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蔵作り
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紙屋さん
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美術館の隣にある市民文化センターも素敵な建物
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豊科近代美術館、建物も花も美しい。
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雄大なアルプスの山々が臨める。いつまでも眺めていたい。
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美術館を横から見る。長い時間、展示室で絵を見ていると体が冷えるので、時々庭に出て一休みした。


宮芳平は安曇野出身の画家ではない、明治26年新潟のゆとりのある家の8人兄弟の末っ子に生まれ、小さい頃から持って生まれた絵心は周囲の人間を感心させていた。柏崎の海岸でスケッチをする画学生の姿を見て、自分も絵描きになりたいと考え始めたという。

いくらゆとりのある家でも末っ子でも、絵描きになることに許しが出るはずもなかったが、ただ絵を描きたいという強い意志で上京する。
画学校でデッサンを学び、2年目で東京美術学校(現東京芸大)に入学する。
当時のデッサンも展示されていて、指導を受けることによってぐんぐん力を付けていった様子が伺える。

21歳で文展に出品するために大作「椿」を描き上げる。十分な仕送りも無い中で、大きなキャンバスを用意し、それを描けるアトリエも借り、モデルも頼んだ。賭けていたのだ。まだ卒業もしていないのに、なんという自信に満ちた大胆さだろう。父親に一刻も早く画家として立っていける見通しを示したかった。しかし、父は作品が仕上がらないうちに亡くなってしまう。失意のうちに描きあげた「椿」は落選してしまう。若かった芳平は恐れ気も無く審査員の一人だった森鴎外に落選の理由を質しに行く。鴎外はその芳平の態度に感銘を受け、「天寵」という小説に、困苦の中で芸術に打ち込む素朴で純粋な芳平を画学生Mとして描いている。

「椿」は暗い背景の中のソファに座っている二人の女性を描いた作品だ。緑がかった背後の布、横向きの女性の斜めのポーズと赤いドレスが印象的。目を凝らして見ると椿が2輪描かれている。
長らく見つからなかったが、宮芳平の死後、アトリエを整理していたときに巻かれた状態で見つかった。補修して今回初公開となった。発見されて本当に良かった。荒地の花-神とともに人とともに_c0068891_213955.jpg
椿(部分)

次の年に文展に入選するが、困窮の中で学生結婚した芳平は美術学校をやめ、新潟に帰り、嘱託教師の職を得る。しかし短期間でその職も辞し、平塚に移り住む。その頃に中村彝に師事するようになり、その彝の薦めによって諏訪高等女学校(現二葉高校)に嘱託教師として赴任する。
この後、定年まで芳平は美術の嘱託教師を勤めるのだが、1校での扶持では家族を養えず、何校か掛け持ちしていたという。
文展や日本美術院コンクールに入選していた芳平だが、森鴎外、中村彝の後ろ盾を亡くしてからは、諏訪に引っ込んでいた芳平と中央画壇との繋がりは途切れ、省みられないまま絵を描き続けた。
貧乏は暮らしの一部であり、人生の連れ合いとも言えるものだった。子沢山で病弱な妻、生活を支えることの重さ、絵を描くことへの乾きに似た情熱。

 一本の絵の具を買えば悲し こどものゴム靴はまたひと月延びたり

芳平が私信の代わりに発行していた「AYUMI」に載せた詩の一節だ。
いかようにも悲惨になりそうな彼とその暮らしを強く支えていたのは、子供の頃から関心を寄せていた神と周囲の人だった。
貧しいために、遠出はできずモデルも雇えない彼は、度々自画像と周囲の風景と教え子らを描いた。

 ふと面白さをかんじさえすれば それは絵になるのです どこでも
 その時に立派な腕を持っていたいものです

運動でも絵でも音楽でも同じ。日頃の用意を怠り無くしておかなければ、いざという時にいい仕事ができない。

1933年から39年に21号が、1961年から66年までに40号が発刊されている「AYUMI」には、家族について、生徒たちについて、絵について、かみさまについて、飾ることなく信じることを吐露している。

 時間のないために 私の絵はいつも半端になる 私としてはこれが一番辛い
 みんなは私を殺して生きているのだ ・・・・
 私もかつては自分の先生を殺して生きてきたのだ

自分を殺しながら、人を生かし、また自分を、自分の仕事をやり遂げなければならないと言い聞かせることも、1枚のいい絵を描くことと、ひとつのいい授業をすることは分かちがたい関係にあると書いた日もある。

 学校の美術教室が彼の画室だった。早朝、あるいは放課後に絵を描き続けた画室の扉にはこのような言葉が刻まれていた。
 
 こは 吾が城ぞ砦ぞ 命に代えて守るべき 城ぞ砦ぞ

諏訪に来て20年、芳平が50歳のとき、弱かった妻が肺結核で亡くなった。

芳平はずっと嘱託の身であったために定年を迎えても、退職金も年金もわずかばかりのものしかなかった。そのために教え子やその親、教師仲間が中心となって、銀座と諏訪市美術館で個展を開催し、その売り上げでアトリエを建ててくれた。

長く世間には認められずにいた芳平だったが、この頃から国画会会員となり、積極的に発表の機会を持つようになる。そのような機会にはいつも教え子や友人が力になったという。

73歳で初めて飛行機に乗り、エルサレムを訪れ、数々のスケッチから「聖地巡礼」という素晴らしい連作を「コスモス」に連載し、後に同タイトルで出版した。

ようやく訪れた心穏やかな生活だったが、78歳で癌を患い入院、間もなく息を引き取った。なくなる前に洗礼を受けた。

今回の展覧会では若い頃のデッサンから、初期の点描を用いた作品、版画のような独特の筆致で大正という時代を思わせる女性を描いたペン画、教師時代の作品、次第に厚塗りになり輪郭が曖昧になって、マチエールと色彩によって身近な風景や植物を表現した作品。そしてコンテによって描かれた繊細で深い精神性を感じさせる「聖地巡礼」と、非常に見ごたえのある内容だった。
1階には、未公開のデッサンやアトリエを再現した部屋もある。

所蔵している宮作品は2千点もあり、まだまだ公開しきれないということだ。また新潟の県立美術館では「聖地巡礼」の油があるということなので、公開にあわせてぜひ訪れてみたいと思う。

豊科近代美術館は他に高田博厚の彫刻作品も幅広く収蔵しており、常設展では数多くのトルソとその人物の思想や人格までも刻み込んだ著名人の圧倒的な肖像彫刻を見ることが来出る。小さいが実に見ごたえのある美術館だ。

しかし、喫茶店にはコーヒーや紅茶などの飲み物とケーキしかない。朝から3時までそれでなんとか過ごさなければならなかった。

何も知らないで電車に乗った私がこれだけのことを知りえたのは、学芸員によるガイドツアーのお陰である。楽しいエピソードも交えつつ作品解説を1時間にわたってして頂いた。深く感謝申し上げる。


息子さんの晨さんの思い出話では、座布団がなくてお客さんに申し訳ないと、奥さんがやっと貯めたお金を渡すと、そのお金で芳平さんは蓄音機とレコードを買って来てしまったという。大正14年のことだ。
世事に疎く、生涯貧しかったが決していじけず高い志をもって、家族や生徒を愛し、慕われた宮芳平という人を知ることができたのは幸せなことだった。
by inadafctokyo | 2010-05-04 20:52


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