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高く掲げよ-中村正義の美術館

よみうりランドのある山道を自転車で難儀しながら越えていくと、コートはいらないほど汗をかく。病院や観覧車を眺めながら丘の湯まで辿り着けば登りは終わり、あとはくねくねと下るだけになる。元々は山の畑や雑木林だった土地にまで人が入り込み、今では山の上まで家が建ち並ぶ状態になっている。そのような川崎の細山という土地に中村正義の美術館はある。
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画家の自宅であった建物を画家が亡くなってから11年目に美術館として開館してから20年になる。
玄関のブザーを鳴らすと、上品な女性(画家の娘さんのようだ)が中に招き入れてくれる。靴をスリッパに履き替える。広い窓が外光を取り入れ明るい室内に絵が展示されている。お茶も用意してくれる。親しい人の家で寛いでいるように壁の絵や置いてある画集、画家を紹介するテレビ番組のビデオを見ることができる。
私たちがいる間に2組のグループが訪れたが、いずれも年配の女性の方たちで小さな美術館の暖かな静けさが破られることは無かった。

中村正義といえば、強烈な色彩とフォルムを持った“顔”の連作や“舞妓”だろうか。
若くして日展の審査員(36歳だった)にまでなった中村正義は、やがて旧牢な日本画の世界に疑問を抱き、日展を脱退、新たな表現の世界に挑むと同時に画壇の変革もめざし、組織づくりにも力を尽くした。
この美術館では正義の一面的ではない魅力に触れられる。療養時代に知人に出したはがき(勿論半分以上が絵である)、数々のエピソード、例えば、師の壁画の仕事を手伝ったときは好き勝手に描いてしまうので、すぐに手伝いを断られた・・・などによって、頭のてっぺんから足の先まで絵描きであった中村正義という人を近しく感じられる。
正義はまた写楽研究家としても一流だった。彼は写楽(浮世絵)の研究家には絵がわかっていないと思っていた。自分は絵描きの先輩としての写楽を研究するという言葉がある。口、目、鼻、手、足、と細かくその描き方を分析した。通常1本で描くところを2本の線を使う等の線の特徴もいくつも示した。絵についてはほとんど独学で直感を大切にした正義は一方でこうした研究を絶えず積み重ねていたのだろう。
天才と称されながら、常に病を持ち死を意識していた。若くして結核のために療養所に入り、一時画業を中断せざるを得ず、40を過ぎてからは2度の癌との闘いがあった。しかし、近くで正義を見続けた人たちは、「がっかりしたり、しょんぼりしたりしたところを見たことがない」「何か事があったときは解決するにはどうしたらよいか常に考え、必ずそのように行動する人だった」と語る。
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大きな窓から臨める庭には立派な欅が2本、正義の描いた風景画の樹のように堂々と枝を広げている。それは苗から育ったものではない、正義が大きな木を望んで植えさせたものだ。残り少ない人生では苗木から育つのは待てなかった。常に今に満足せずテーマは多岐に渡り、画材研究も怠り無かったということが作品からも知れる。岩彩だけでなく、油彩も独力で学び、岩絵の具と油絵の具、パステル、板、キャンバス、和紙を実に楽しげに自在に使いこなしている。まだまだ画家として油が乗ってくる52歳で亡くなってしまったのは本人にも私たちにも残念と言うしかない。
日展という権威に反旗を翻し、水俣病や政治の腐敗にも関心を寄せずにはいられなかった。
ただ自らの画業を追求するだけでなく、恵まれない才能の発掘や援助にも尽くした。
命の続く限り旗を高く掲げて歩む中村正義の絵は、わたしたちをいつも励ます。

「中村正義の美術館」“の”を入れた方が良いとアドヴァイスをしたのは画家と親しかったグラフィックデザイナーの粟津潔。
オープンは3・4・5月と9・10・11月の金・土・日・祝
今年は今度の日曜で終わりとなる。
埼玉の「原爆の図丸木美術館」で12月12日まで中村正義展が行われている。

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庭に、息子さんの作った顔の焼き物が置かれている。
by inadafctokyo | 2009-11-22 02:05


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