カテゴリ:映画( 7 )

新年に寄せて

年が改まって初めてのエントリです。
今更おめでとうでもありませんが、今年もよろしくお願いいたします。

毎日の暮らしの中に落ち着いて何かを書くという時間を取ることが出来なくなってきています。
細切れな時間のやり繰りの中で何を優先していくかは重要な判断になるでしょう。
今は反射神経と集中力で一気にパソコンに向かわなくては、ブログのアップは難しい。特に一人になりたい私にとっては難しい状況が多いわけで。

いっそもうやめるということもあって良いような気もしますが、わざわざ宣言しなくても、遠ざかればいいわけです。

それでも心が動いた時にはそれを記したいということもあるので、ぽつぽつとやはり続けていくのかもしれません。PCやiPadの中には端切れのような文章がいくつも落ちているので、それを拾い上げてはアップすることも今年の課題となりましょうか。

昨シーズンは早々に天皇杯を終えてしまいましたので、十分な残り時間を与えられました。
怪我の功名というのか、いつもは我慢している歌舞伎やバレエ、映画などを観ることが出来ました。
日々精進しつづける人間の凄さはジャンルが変わってもこちらに迫ってくるものは変わりません。
どんな時もわたしを励まし、前に進む勇気を与えてくれるものです。
様々な事情でアウェイ観戦は簡単にはできそうもありませんので、今期は舞台に接することが多くなるのかもしれません。

年末に映画「ファースト・ポジション」を観ました。
ユース・アメリカ・グランプリ(YAGP)のファイナルに臨む若いダンサーを追ったドキュメンタリー映画です。
YAGPはローザンヌと並ぶ最高峰のコンテストで、世界各地の予選には9歳から19歳までのダンサーが毎年5千人以上も参加し、ニューヨークのファイナルは200人から300人が出場することが出来ます。

その中から映画では6人のダンサーをその家族とともにカメラに収めています。
10歳から17歳までの彼、彼女たちを通して、観客はバレエという芸術の過酷さを知るのです。
普段あまりバレエの世界に接していない人にとっては意外なくらいの厳しさかもしれません。美しく華やかで優雅な舞台を作り上げているのは、生身のダンサーたちのそれこそ血の滲むような努力と鍛錬、そして天からの贈り物のような才能に抗い難く惹きつけられた家族や教師の献身。そしてトップアスリートのようなストイックな日々。
バレエに魅せられた私には当然のことと思えるそれらのことも、こんなにしてまでと思う人がいても、不思議ではありません。
レッスン時間を増やすために学校に通う時間も惜しんで自宅学習をしているミコとアラン。
16歳のコロンビア出身のジョアンは家族と離れ、アメリカでレッスンを続けています。
シェラレオネから養女として迎えたミケーレのバレエ修行のために家族で引っ越しをする養父母。

しかしどんなに努力しても、それが必ず報われるわけでもないこともこの映画は映し出します。
舞台を降りて泣き崩れ、教師の言葉にもなかなか立ち直れない少女がいました。彼女もまたあの6人の少年少女たちと同様にありったけを注いでここまでたどり着いたに違いありません。
その他にもレッスンで変形し、傷ついたダンサーたちの足指、トゥシューズにリボンを縫い付ける、ストレッチをする、衣装の嵩張るチュチュを両腕でまとめて歩く等々、バックステージをその折々に捉えたちょっとした場面が輝いているのは、監督のベス・カーグマンがかつてバレエ学校で学び、この世界を深く理解しているからでしょう。

栄光を掴んでも、失意に沈んでもバレエが好きで堪らず、そのために全てを捧げる決意を持ったまだ若い彼ら彼女らの姿は一瞬一瞬が魅力に溢れ美しくそして力強いものです。

バレエには5つの基本姿勢(ポジション)があります。跳躍や回転などすべての動きはその5つのポジションから始まり、終わります。
第1ポジションは両方のかかとと膝の裏をぴったりとつけ、つま先と膝は外側に向けます。足はまっすぐで付け根から外に開く、アン・ドゥオールを保たなければなりません。両腕は脇に卵を挟んだくらいにして広げ、腕全体で綺麗な弧を描きます。手の位置はお腹の前です。
ファースト・ポジションというタイトルは若いダンサーたちそのものと、彼らがスタート地点に立ったのはまだまだこれから弛まぬ努力を要求される世界であるということを表現しているのではないでしょうか。
何によらず脇目もふらずに自分の力で道を進もうとする若い人たちには誰もが拍手を送るでしょう。

バレエをよく知らなくても感動を得られる映画です。ぜひご覧ください。
渋谷ル・シネマにて。
ファースト・ポジション
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by inadafctokyo | 2013-01-12 21:03 | 映画

おおかみこどもの雨と雪

府中のTOHOシネマズは若いカップルと親子連れが目立った。
この映画は小さい子であっても、恋愛中の若い人であっても、子育て中の人も私たちのように50夫婦割引の二人であっても楽しめる、心に残る映画だ。
(ストーリーに言及しています)

はながおおかみおとこの彼と出会って、すこしずつ距離を縮めていく過程は、誰にでも思い当たる感情を肌理細やかに描いて切ない。
二人ともが恵まれない境遇と慎ましい生活を送っているために、わたしたちの青春時代を彷彿とさせるが、実際は細田監督が切り取った平成の断面なのだ。

やがて妊娠したはなは自宅で二人だけで出産しようと本を読んで備える。何かと云えば図書館で本を探すのも懐かしさを感じる。
姉の雪に続いて弟の雨が産まれてまもなく、父親のおおかみおとこは命を失う。
一人で幼子を育てるはな。雪と雨は感情が昂るとおおかみに変身してしまうことをコントロール出来ない。都会での暮らしに行き詰まりを感じたはなは二人を連れて、地方に移住する。日本のどこにでも見られる田畑や里山はあるが、カラオケ店もファーストフードの店もない、高齢化の進む地域。
住民の注目を集めながら、廃屋を修理し、荒れた畑の手入れをする。
移動図書館で借りた本の通りに野菜を育ててみるが、失敗ばかりだ。本と現実とは違う、そういう時は先人の知恵を借りたほうがいい。
見かねた老人がぶっきらぼうだが的確なアドヴァイスを与え、そこから住民たちとの交流が始まる。

畑で労働に汗を流すはな、雪のなかこどもたちと駆けまわるはな、地域の自然ビジターセンターで働き始めるはな、ゆっくりと季節が移り変わり、こどもたちは成長していく。活発な姉の雪、臆病で体が弱く学校も休みがちの弟の雨。
こどもたちがおおかみとして生きるのか、人として生きていくのか、どちらでも選択できるようにと深い森と山に囲まれた地域に引っ越してきた一家に、こどもたちの成長とともに岐路が近づいてくる。
おおかみこどもをどうやって育てるのか手探りで取り組んできたはなだが、二人は周囲の大人たちや友達関係、そして自然の中で、生きる術を学んでいく。

少女らしい心の揺らぎを体験する雪は転校生の少年との関わりから、自分を押さえつけるのではなく、認めて生きていく手がかりを掴む。
おおかみとしてのアイデンティティに目覚める雨は山で生きていく術を山の中で「先生」から学ぶ。
そして台風が豪雨と強風をもたらしたある日、10歳の雨は自立する。

わたしたち親はみな、おおかみこどもを育てているのだ。自分と違う考えと生き方をする生き物を育てている。どんな生き方を選ぶのか、その道を選んだ時に何が必要か、こどもは自分で掴んでいく。
山に帰っていく雨に、はなは「まだ何もしてあげていないのに・・」と悲痛な声をかける。
振り返る雨の目はしっかりと母を見つめている。
こどもが一人で歩き出した時点で、わたしたちの役目はあらかた終わっている。
それまでに多くを与えた。惜しみなく慈しみ、向き合い、手をかけ、見守った。
親からたくさんの愛を受け取って、こどもは旅立つ。

そして私たちもこどもを産み育てる過程で、大きなプレゼントを受け取っている。

だからこどもたちには心配せずに行きなさいと言おう。

「しっかり、生きて!」「元気で・・」

姉の雪は中学校に進むために寮に入り、はなは今でも深い山の麓の家に住んでいる。
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by inadafctokyo | 2012-07-22 16:48 | 映画

宮崎吾朗の失われたこども「コクリコ坂から」

この映画で描かれているのは1963年、東京オリンピックの前年です。
高校性の海がご飯を炊くのは羽釜で、ガスコンロにはマッチで火を点け、炊き上がったご飯はお櫃に移します。買い物に行くのは町の商店街。お肉も野菜もお魚も個人商店で買います。買った物を入れるのはポリ袋ではなく家から持って来た買い物かごです。それは大抵しっかりした藤で編んだかごでした。我が家にあったのは、藤のそのままの色のかごにぐるりと二本赤い線が入っていました。
夜は薄暗く、高台から見下ろすと今よりもずっと少ない町の灯りがきれいで、町並みは小さく、かろうじて戦災を免れた建物はまだあちらこちらに見かける事が出来ました。
人々の特に若い人たちの服装は質素で、言葉は大切なものと思われていたはずです。

吾朗監督は1967年生まれ。この様な物、人たち、風景、暮らしを懐かしく思う年代ではありません。
シナリオは駿さんが書きました。だから、駿さんの言うリアリティと吾朗さんのそれとは当然違います。私とも違う。記憶の中にあるものを再現するのとは違う作業になるわけで、作品の不思議な空気を作り出すことに成功していると思います。

海が恋する相手の俊の出生には事情がありました。学生時代からの親友三人の中の誰が自分の父親なのか。二人は既に亡くなり、育ての父も詳しい事情は知りません。父を捉えなければ恋は実らない。自分の生まれから自由になるために、海と坂道を駆け下りる俊は吾朗さんそのものなのかもしれません。

「ゲド戦記」の時も感じましたが、吾朗さんの作品は少し暗く静かで、敢えて駿監督作品と比べると寧ろ大人の感覚がします。
駿さんは何時までも終わらないこども時代の中で作品を作る人で、吾朗さんは早く大人になりたかった人。

新宿ピカデリーの観客席を埋めたのは殆どが10代20代の人たち。でもね、本当は私たちのような年代の人間がこの作品の良さを味わえると思うのです。
これはそんなに昔の事ではありません。俊や海、その同窓生だってまだ生きています。
吾朗さんがこのように言います。「全てが与えられたもので、自分で作り出したものじゃなかった。文学も映画も音楽も、マンガもアニメーションも…(略)…目の前にあったのはいつだって前の世代が作ったものだった。」
私もかつてそう思いました。
常に前の世代を意識しながら、もやもやした青春を誰もが過ごすものなのでしょう。
夫婦50割引でこの映画をご覧ください。良いことばかりじゃ無かったけど、一緒に歩いて来て良かった、と思えるでしょう。
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by inadafctokyo | 2011-07-21 00:17 | 映画

ブラックスワン?なんじゃこりゃ

U-22日本代表が3-1でオーストラリアに快勝し、フル代表がペルー相手にスコアレスドローに終わった夜、有楽町で映画「ブラックスワン」を観ていました。
予約した時は代表戦の事はすっかり忘れていましたね。はい。
そして、今日は渋谷でKバレエカンパニーの「ロミオとジュリエット」を観てきました。

今日は大満足、昨日はいま一つと言ったところですね。
「ブラックスワン」よく考えれば観た人たちの反応は微妙なものが多かったですね。
ナタリー・ポートマンのオスカーに騙されたなぁ。
頭の中は???な状態で映画は終ってしまいました。監督はこの収拾がつかなくなった映画を本当はどうするつもりだったのでしょう。
母親との葛藤から自由になれない、性的にも解放されない女性を扱ったオカルトならバレエでなくても良かったのに。
バレエ、そして白鳥の湖の主役を射止めた若く美しい女性という設定でなくてはこれ程客は呼べなかったでしょうから、商売的には成功したわけです。
しかし、映画として成功しているかは全く別の話し。
ポートマンの演技も臆病な部分はややステレオタイプに思えます。何年か後に観ると笑えるかもしれません。
バレリーナになり切ったという点では合格だったと思います。大変な努力をしたのでしょう。殆どスタントなしと言う事はある程度本職の人が踊ったという事でしょうし、カメラワークでかなり助けられている印象です。だからと言って価値が無いわけではありません。この映画にポートマンが居なければなんの取り柄もないでしょう。

しかしバレエを愛する人間にとってはフラストレーションが溜まる映画です。ちゃんとバレエを描いてくれるのかと思うと、妙な展開になる繰り返しで、道で監督にあったら足払いでも喰らわせようかと思うくらいです。

今日の素晴らしい舞台については明日にでも。
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by inadafctokyo | 2011-06-03 00:05 | 映画

男はみんなロクデナシ  「ブルーバレンタイン」

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そういう映画でした。「ブルーバレンタイン」
では女は?と言うと、しっかり仕事して、こども産んで育てますという・・。
ストーリーはシンディという女の子とディーンという男が出会い、お互いに夢中になり、結婚し、やがて破局するまで。
年齢や性別、既婚か未婚かで受け取り方がかなり変わりそうな映画です。
監督と脚本家が10年以上かけて練り上げたというだけあって、平凡なストーリーを非常にち密に織り上げています。

若いころの異性に惹かれる瞬間、セックスの喜び、年を経てすれ違う感情、小さいエピソードを丁寧に描いて無理がありません。

今月末まで光TVの無料お試し期間で、旦那が毎日暇さえあれば映画を観ています。それで分かったのはこれだけたくさん映画が作られていて、しかし本当に観るべきという映画はそんなにない、ということ。
この映画はみなさんにお薦めできます。

現れる男は、まずシンディのボーイフレンドのボブ、マッチョなハンサム。
しかし、まだ学生で、医者を目指して勉強を続けたいシンディのことも考えず、中に出してしまう様な大馬鹿野郎で、シンディは腹を立て距離を置くようになります。
そこに現れたのがディーン、定職にも付かずにその時その場をふらふらと生きているような男なのですが、屈託のなさとユーモアとウクレレと歌でシンディの心を掴んで行きます。
最初、近づいてきたディーンに用心して寄せ付けなかったシンディですが、ちょっとしたきっかけで近づいていく二人のやりとりが見ていて微笑ましい。
ちゃんとした仕事に着く、世間の評価を受ける、そういう価値を重く見ていないディーンに惹かれてしまうのも、不機嫌を平気で家族にぶつける父親の存在があるからでしょう。
食卓はいつでも修羅場になりかねない。これも一種のロクデナシ。

この映画を説得力あるものにしているのは、主役二人の役作りの凄さにも依っています。
ライアン・ゴスリングとミッシェル・ウィリアムズは出会ったころの若い二人とその7,8年後を見事に演じています。演技もさることながら体重を増やし、ライアンは髪を抜いて自然に年月を表しています。もっとも二人とも80年生まれで両方を違和感なく演じられる年齢、若いころを演じられるぎりぎりの年齢だったと言えるかもしれません。

女と男は数々の勘違いの揚句くっついたり離れたりするわけですが、こどもがいると途端に現実的になる女といつまでも勘違いをしているままの男、もっとも、名を上げるよりも父であること夫であることを何より大事にしたかったのもまた男なりに現実に即してということになるのでしょうか。

わたしとしては(ここでいきなり私生活暴露か!?笑)朝から酒飲んでいても構わないけれど、やるべきことはやってねというだけ。
どこまで許容するかは夫婦それぞれ。それは非常に微妙なバランスの上に成り立っているものです。

二人の若いころの幸福感が素敵な分、その後のすれ違いが痛いのです。でもこれは結婚生活の長い人には多かれ少なかれ解るものでは・・。そう言うと未婚の男性にはショックなものらしいのですが。仕方ないのよ、永遠に変わらないものなんてない。人の感情も同じ。
最後には、シンディを追いかけて追いかけて自分の気持ちを伝えようとしたディーンも、回復不能を悟って母子に背を向けて去っていきます。
女はこどもさえ居れば大丈夫なの。涙は明日には乾く。
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by inadafctokyo | 2011-05-12 17:14 | 映画

Hiroshima, mon amour

アラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本

アラン・レネ監督の1959年の作品。
反戦映画のロケのために広島を訪れたフランス人女優と日本人男性が情事に溺れるたった一日を描く。二人には戦争によって負った深い傷があった・・・・。
アラン・レネにはこれ以外にも「夜と霧」「戦争は終わった」「ベトナムから遠く離れて」など戦争を取り上げた優れた作品がある。本作でもレネは“外国人に原爆を理解することは可能か”を映像化して問いたかったと言われている。

男と女の情事の背景に原爆によって引き起こされた無残な情景が延々と映し出される。恋愛映画として観に行った人も、反戦映画として捉えていた人も双方が若干の居心地の悪さを味わっていたような気がするが、何しろ初見がかなり、とっても、大変昔のことなので、(言っておくが初公開時ではない)記憶に綻びがあることは考えられるし、同じ監督の「去年マリエンバードで」の印象も被ってしまっているかもしれないから、ここで色々述べることは、まあ、参考程度に留めてほしい。

原爆で家族を失った男は「君には広島はわからない」と言い、戦争中に独軍の兵士を愛して、戦後糾弾された女はフランス語でつづれ織りのように自らの記憶を複雑な模様として織り出していく。
わかりにくい映画と言われているが、フランス人の映画監督と湿り気のある恋愛を描いて得意なフランス人女性作家が原爆と広島を理解しようとした貴重な作品というだけでも見る価値はある。

傷を負った記憶は誰によって理解され、癒されるのか、それは生者に可能なことだろうか。被爆者の命が尽きる前に私たちには出来ることがある。

男(岡田英次)と女(エマニュアル・リヴァ)が美しく、モノクロ画面の光の印象の深さとともに若い私の心の中には恋愛の絶望感と退廃感が色濃く残された。
‘50年代の広島の街の様子を見ることのできる貴重な映像とともに迷路のようなこの映画に浸ってみて欲しい。
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by inadafctokyo | 2010-08-06 15:49 | 映画

ちょっと残念なオーシャンズ

府中TOHOシネマズに「オーシャンズ」を見に行ってきました。

構想10年、撮影期間4年、撮影場所は世界各地50箇所に及んだという「海」を描いたドキュメンタリー映画です。

最初と最後にウミイグアナが登場します。その姿はわたしたちが知るイグアナそのものですが、海の中にいるというのが不思議な感覚です。
怪異な容貌のコブダイ、ジュゴンやウミガメが海底や岩に生えた草を食べる様子、大きな布が波に揺られているようなムラサキダコ。
群れになった生き物もたくさん出てきます。
クモガニの群れ、エイの群れ、見ていると不思議な陶酔が得られるクラゲの群れ、イルカの群れは鰯の大群を水面近くまで追い込んで、一気に口を開けて捕食します。それを絶好のチャンスとしてカツオドリの群れが鰯を求めて海中に突っ込んでいきます。
しかも、鳥と一緒に海にもぐるような、魚の群れに自分が突っ込んでいくような、波にのまれるような臨場感に満ちた映像、魚の口の中まで見え、繁殖の行動を目の当たりにし、怒涛のような鯨の動きを体感する映像は画期的な撮影システムによって成し得たものです。

鰯の何千匹という群れがひとつの生き物のように大きな楕円を描きながら動くさま、そこへイルカが突進して楕円がほどけていく様子。ただただ圧倒的な映像の迫力です。

荒れた海の恐ろしさ、凪いだ海の表情、それもまた果てしない大きさを感じさせてくれます。
何年もの製作期間をかけただけあって、海の多様な生命は驚きに満ちています。
そうしたドキュメンタリー部分はすばらしいのですが、作った部分が取ってつけたようで稚拙としかいいようがありません。子供とお年寄りの会話のシーン、さまざまな魚や亀、イルカなどが網に絡め取られ、命を落とすシーン。そうしたシーンをわざわざ作って入れなくても、美しい海、多様な生き物を見せることで十分訴えることはできたはずだと思います。
何かどこかから恣意的な働きかけがあったのか、そのような場面を差し込むことでかえって全体の印象が中途半端になってしまったのではないでしょうか。

確かにアザラシがごみだらけの海底を泳ぐさまは見ていて胸が痛むのですが、最終盤の説教くさいナレーションといい、製作者が観客を信じられなくなり、余計な場面や言葉をつい入れてしまうとき、その映画や演劇の生命力は甚だしく減じてしまいます。

イルカや鯨の映像も全体からすればバランスを失するほどに長かったと感じられました。いくら音楽を入れても私には退屈に感じられたのも事実です。隣の女性も寝ていましたし。
せっかく撮った26万mものフィルムがもったいない、もう一度編集して、貴重な生物の姿を見せて欲しいものです。

監督はフランス人、製作者にどのようなメンバーが入っているのかクレジットでよく見ればよかったのですが詳しくは知りません。シーシェパードが賛同団体として名を連ねているとも聞きます。
欧米人という言い方をしていいのかどうか迷うところですが、彼らは散々殺し合いも自然破壊もやりつくしてきたので、鯨やイルカを救えば自らも許されるとでも思っているのでしょうか。
そんな虫のいい話につき合わさせるのはわたしは御免蒙りたいし、どこの神様もそれほど甘くはないでしょう。

そしてもうひとつ残念なことがあります。
この映画は、こども500円キャンペーンと銘打って、積極的にこども客を呼び込んでいます。その結果、お金を払って見に来ているのに、友人の居間でテレビを見ているような気持ちにさせられました。
まだ言葉もはっきり喋れないような子供は早々にぐずりだす。年長くらいのこどもは上映時間の半分くらいで飽きて「もう終わり?まだ?」と何度も聞く。そのうち場内を歩き出す。
大人の観客はみな気にして、後ろを振り返ったりしていました。

この映画は小さなお子さんには向きません。せいぜい小学校の高学年以上でなんとか楽しめるといったところでしょう。でも実際のところ、1時間40分もの間、座らされているよりも水族館にでも行ったほうがずっと楽しめると思います。
海がなんたるかを感じさせたかったら、海に連れて行くのが一番じゃないですか?
まず身近な海を知って、それからガラパゴスや南極でもいいと思うのです。

こうして書いていくと、ちょっと残念というより、かなり残念な映画という気がしてきました。

でもすばらしい映像もあるので本当にもったいない、というしかありません。
暇だったら見てみてください。

あ、こどもキャンペーンは4月9日までです。


コウテイペンギンが南極の白い大地にただ1羽横を向いて立っている。遥か遠くには小高い丘が見え、その後ろから形容し難い色合いの光が差し、周囲をやわらかく包んでいる。ただそんなシーンが忘れられなくなる、そういう映画なのですが・・・。


追記:もちろん、映画館の責任者を呼んで、こどもたちのことについては苦情を言わせてもらいました。
この場合は映画館や映画会社側の責任が大きいと思いますので。
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by inadafctokyo | 2010-03-14 02:18 | 映画